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消費社会

2007-04-24

 私は平成5年製の車に乗っているが、そろそろ高公害車ということで税金が上がるはずである.税金が上がるのは、国として新型への買い替えを促すためである.確かに、最新型のものに比べれば燃費は悪いし、排気ガス対策も劣っている.しかし、年間走行距離が3000キロにも満たないのであるから、この車を買い替えて新しいものにする方が環境に良くないのではと言いたい.最新型を大した用もないのに乗り回しているのに比べれば、渋滞にも寄与せず、遥かに環境には優しいと思ってしまう.「消費は美徳」として工場で生産された製品を大量に消費し、そして同じだけ廃棄していたというのが1960年代から1970年代にかけてであった.物を消費する事により国が発展するという仕組みを国自ら作り上げ、市民には消費をあおり、または強制的に消費させ、結果的に廃棄物の処理に困る状況を地方自治体に押し付け、東京からは見えないところで環境汚染が進行しており、将来に渡って解決に労力をかけていかなくてはならない状況にある.しかし、ここで大量生産大量廃棄による環境問題を語ろうというのではない.それは、他の専門家や市民活動家に任せたい.

 私が問題としたいのは、モノではなく、地域の消費である.地域の消費と言っても、地域における何かの消費ではなく、地域そのものを消費するという事である.

 都市計画や景観計画において地域の資産であるとか資源というものがしばしばキーワードとなる.ここで言う地域の資産または資源というのは、その地域を特徴付けている歴史的な家並や自然環境、文化芸術に関わる行事や空間、その他の地域にとって重要な意味を持つ要素である.平成16年に施行された景観法においても、「地域のランドスケープになる景観上重要な建造物を積極的に保全」することを目的に景観重要建造物を景観計画区域で指定する事ができるとされている.これらの要素の中には、特別な歴史的出来事と結びついて単体で存在価値を有するものもある一方で、地域住民が抽出された要素の存在を認知することにより、地域整備の拠り所について共通理解が得られることに意味があるものもある.実際の現場で抽出される要素のほとんどは後者のカテゴリーに属するもので、それらは単独でよりも、周辺との関わりを含めて存在価値がある.整備する側(全員が同じように考えているかは定かではないが.)は、対象とする地域が核となる要素に呼応するように変化し、まとまりを持った空間となる事を期待している.

 現実にそこでどういう事が起こるかというと、整備の初期段階では見識のある住民が整備する側の意図を理解して、抽出された要素との関係を考えて自分達の周囲を整備するようになる.そして、その様子を見て好ましく感じた住民達が徐々に先行する整備の真似をするようになる.ここまでは期待した通りなのであるが、この段階あたりで問題が発生し始める.それは、この好ましい状況が商売になると考える者達が入って来るようになるのである.そこに商機があるということは地域の活性化にとって良い反面、地域を尊重しない商売人が目先の利益だけを考えて入ってくるという危険を孕んでいる.このような商売人や業者が見ているのは、地域でもなく住民でもなく、そこでやり取りされる金銭であり、彼等は自分達の行為が地域に与える影響を深く考える事もなく、またその責任を取るつもりもないことは、日本全国に見られる痕跡に現れている.歴史的街並の中に突如現れるタレントの等身大人形や、バブル期に乱立したリゾートマンション、ホテルのプライベートビーチ等枚挙に遑がない.その結果、地元の住民までもが自分達の地域の本来の価値を忘れ、目先の利益に惑わされて自ら地域の破壊に加担してしまうようになる.

 これらのような状況の根底にあるのは、今日の社会の行動規範が「消費」になっていることであると考えられる.つまり、歴史・文化にしても、自然にしても商売人にとっては利潤を得るための商品であり、受け手側にとっては対価によって得たモノなのであり、自らの行為によって、そのモノである商品の価値が下がれば、両者とも別の地域に移って行ってしまうのである.そして、消費された地域は、経済的にも物理的にも修復不能な形で置いて行かれるのである.しかも、残念ながら、一部の景観デザイナーを語る者も地域の消費行為に加担しているという現実がある.

 この種の商売人は大概声が大きく、この種の消費者は集団で勢いが強いものである.地域としては彼等の存在を無視する事はできないが、彼等に消費し尽くされないように賢明なコントロールの仕組みを持つ必要がある.

 出典:国土交通省資料「『景観緑三法』の制定について」平成16年7月

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